開発の経緯
■アメリカ初の実用ジェット戦闘機の誕生
 第二次世界大戦も終焉に差しかかった1942年、アメリカ空軍は実用に耐えうるジェット戦闘機の開発を急いでいた。すでにイギリス・ドイツではジェット戦闘機を完成させており、実戦への投入の可能性も日増しに高くなっていた。当時より豊富な物量を誇るアメリカではあったが、ことタービンエンジンの事となると世界の先端より一歩後退した位置に着けていたのだ。このため、アメリカ空軍は当時入手可能であったジェットエンジンの中で最高の性能を誇るデ・ハビラントH1.Bエンジンの極秘資料ををロッキード社に委ね、1943年6月、本格的なジェット戦闘機の開発をスタートさせた。

 契約からわずか約6ヶ月という短期間で完成したプロトタイプ(※1)はXP-80の名称を与えられ、1944年1月8日に初飛行を果たす。初飛行で良好な操縦性と実用機としての可能性を見せたXP-80は、その後も細かな改良を経て先行量産型であるYP-80に発展し、1945年2月、ついにF/P-80として正式に部隊配備された。F/P-80はアメリカ初の実用ジェット戦闘機として活躍し、最終的に約1,800機が導入された。

XP-80プロトタイプ1号機▲
 しかし、開発・部隊運用を通じて初期のF/P-80は非常に事故の多い機体であった。事故の原因は様々であるが、どれも格段に高速・複雑化したジェット機へのパイロット不慣れ、技術者の熟練不足などが関係したものであった。皮肉なことに、この熟練度の低さを補うために新しいパイロットの教育・整備体系が必要となり、後に傑作練習機として世界各国で採用されるT-33Aを生み出すこととなるのである。
■T-33Aへの発展、そして世界へ

 T-33Aは当初ロッキード社が独自に開発したもので、完成後にアメリカ空軍にデモンストレーションされた。この機体は原型である戦闘機タイプP-80の前部胴体を延長して後部座席を設けたもので、主翼や機体の主要な部分はほとんどP-80と共通の部品を使ったものである。但し、T-33Aに搭載されたエンジンは前期型のJ33-A-22、後期型のJ33-A-25 ともP-80にはあった水メタノール噴射機構は搭載しておらず、推力の面では若干のマイナスが見られる。しかし、その操縦特性はP-80と全くと言っていいほど同じで、練習機としては最高の仕上がりであった。アメリカ全土をデモンストレーションしたロッキード社は結果として5,000機以上の大量受注を受けた。また、T-33Aはアメリカ空軍のほかにも少数が海軍でも採用され、パイロットのジェット転換訓練に使用された。この機体は海軍での使用のための小改修が行われており、TV-1/TV-2と呼ばれていたが外観上の違いはほとんどない。 また、その他海外にも多数輸出、ライセンス生産が行われた。T-33Aは半世紀近くに渡って西側の数多くのパイロットを育て上げ、「T-バード」の愛称で親しまれる空前のベストセラー練習機となったのである。

■T-33の派生型と延命計画
 世界的にベストセラーとなったT-33ではあるが、1990年代になるとさすがに老朽化の波が押し寄せてくる。しかしT-33Aの機体構造は非常に頑丈で、まだまだ十分に飛行可能な強度を保っている機体が多いため、各空軍やメーカにより様々な能力向上・延命プログラムが提案された。そのため、1990年代後半には相次いで能力向上・延命モデルが初飛行しているが、残念ながらいずれも正式採用に至らずに終わっている。
T-33の派生型、ボーイング・スカイフォックス(※2)▲

※1:
XP-80初号機は「ルル・ベル」の愛称を持ち、数々のテスト飛行を行った後その任務を全うし、修復作業を終えて現在は米スミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。
※2:
スカイフォックスはエンジンを強力ギャレットTFE731-3ターボファン2基に換装され、その姿は原型をほとんどとどめていなかったが、機体の約75%はT-33Aより流用されているれっきとしたT-33派生型である。→スカイフォックス詳細情報

 日本のTバード
■日の丸Tバードのデビュー

 日本におけるT-33Aの歴史は、航空自衛隊の創設と時期とほぼ同じ時期から始まる。1955年(昭和30年)1月、航空自衛隊初のジェット機であるT-33Aの第一次8機がアメリカより貸与された。その後、川崎がライセンス生産した国産T-33A第1号機が1956年に納入され、本格的な国内生産に入った。ちなみに、日の丸T-33は初期の製造機と後期の製造機でコックピットレイアウトが若干異なっており、これは最後まで修正されなかった。航空自衛隊においてのT-33A保有数は最終的にアメリカ貸与機68機、ライセンス生産機210機となった。

■自衛隊パイロット候補生の「最後の登竜門」

 昭和32年、T-33A初の操縦学生第一期生が福岡県の築城基地で訓練を開始し、本格的なT-33による教育訓練がスタートする。その後、全国各地に展開したT-33教育部隊は幾多の移動・統廃合を繰り返し、1978年に最後の安住の地、静岡県浜松基地に移動した。現在第一線で活躍する航空自衛隊パイロットの中で、T-33Aによる教育課程を経験した者のほとんどはこの浜松基地の第一航空団で教育を受けている。練習機としてのT-33Aは良好なスピン特性を持つ反面、着陸や低速での操縦が難しく、また老朽化した機体であったため、操縦経験の少ない学生パイロットにとっては乗りこなすのが非常に難しい機体であった。そのためウイングマーク取得の最後の登竜門として、T-33Aは常に学生たちの前に立ちはだかったのである。

■航空自衛隊のオールラウンダー
 航空自衛隊のT-33Aは、飛行教育以外にも様々な用途で使用された。各航空団には数機ずつが配備され、主に連絡・観測飛行等に使用された。また、飛行隊以外に勤務しているパイロット達は、T-33Aを使用して技量維持飛行を行うことが多く、ベテランパイロットになってからもT-33Aの操縦桿を握る機会は意外に多かった。部隊に配備されているT-33Aのうち数機はターゲット・ドローンとして標的の曳航能力を付与され、射撃訓練の支援任務にもついている。その他チャフディスペンサーやECMポット等を装備して様々な支援飛行をこなし、航空自衛隊のオールラウンダーとして活躍した。
J/ALE-2チャフディスペンサー・ポットポットを装備して離陸するT-33A
■T-33A教育の終了

 1980年代に入ると、防衛庁はT-33Aに代わる次期中等練習機(MT-X)の選定を始め、T-33Aをライセンス生産した実績を持つ川崎重工が主契約社となって純国産のXT-4が開発される事が決定した。そして1985年、最大のT-33A運用部隊である第一航空団にT-4の量産1号機が納入された。これはT-33Aによる学生教育の終わりを意味し、これ以降学生教育はT-4を使用したカリキュラムへと急速にシフトしていく。そして1990年8月、最後のT-33A課程学生(90-A)を送り出したT-33Aは、航空自衛隊における中等練習機としての役目を終えたのである。T-33Aが送り出した若いパイロット達の総数は、2,298名であった。

■T-33A時代の閉幕

 中等練習機の座をT-4に譲ったとはいえ、各航空団ではまだまだ相当数の機体が運用されていた。しかし、やはり老朽化の波には確実に進行しており、様々なトラブルが報告されるようになる。元々事故での損失が多い機体ではあったが、突然のエンジンのフレームアウトなど、深刻なトラブルも目立ち始めていた。1980年代初め頃から第2補給処でモスボール(格納保存)されていた余剰のT-33A(アメリカ供与機)が再び格納解除されて部隊配備され始めている。しかしこれは事故などによる損失の補填ではなく、飛行可能なまま格納状態で用途廃止を迎える事を避けるための措置であった。そのため、晩年には「航空自衛隊で最も初期に導入されたT-33Aが最も消耗していない」という逆転現象が起きている。これら復活した機体は全国の飛行隊(学生教育部隊を含む)に配備された。またライセンス生産機されたT-33Aは徐々に用途廃止処分となるものも増え始め、各基地のゲートガード(展示機)などに転用されていった。1990年代になると、各飛行隊で使用されていたT-33AもT-4と交代し始め、1998年3月には最後の国産T-33Aが用途廃止処分となった。この時点で航空自衛隊が所有するT-33Aは全てアメリカから供与された初期の機体で、その総数はわずかに9機を残すのみとなった。これらの機体はすべて入間基地の総隊司令部飛行隊に所属し、パイロットの年次飛行や用務連絡任務等に使用された。計画では2002年(平成14年)まで使用され、華々しく引退していく事になっていたT-33Aであるが、1999年11月、不運な事故が起きてしまう。年次飛行のため入間基地を飛び立ったT-33Aが入間川河川敷に墜落・炎上してしまったのだ。幸い、ベテランパイロット2名の命を懸けた回避操作により地上での死傷者は発生しなかったが、パイロット2名は殉職。原因は飛行中にラインから漏れた燃料が発火し、操縦不能に陥ったことであった。事故原因を重く見た防衛庁はT-33Aの構造改修の必要性を強く認識するが、わずか9機しか残っておらず、しかもあと1年ほどで退役する機体に多額の改修費を費やすのは得策でないと判断し、2000年4月、ついにT-33A全機の強制退役が防衛庁で決定された。

そして2000年6月29日、T-33A時代の幕を閉じる退役セレモニーが入間基地で開催された。自衛隊創設期から実に45年に渡って運用され、数多くのパイロットを育て上げた功労機であったにも関わらず、大事故での強制退役であったために非常にささやかなものであった。しかし集まった約260名の隊員やOBは、機首に花束を掛けてその労をねぎらった。この日、全国の飛行隊に分散したパイロット達もそれぞれの地からT-33Aへ感謝の気持ちを贈ったことだろう。こうして航空自衛隊におけるT-33Aの長い歴史は幕を閉じたのである。


1999年、入間川河川敷でのT-33A墜落事故では2名のパイロットの方々が最後まで機体を捨てず懸命の空中操作を行ったことで大惨事を免れました。彼らの行動は航空自衛隊パイロットの誇りであり、永遠に称えられるべきであると思います。この事故について当コラムで取り上げる事については相当の迷いがありましたが、航空自衛隊でのT-33Aの生涯を取り上げる上で非常に重要な出来事でしたので敢えて取り上げさせていただきました。ここで改めてご遺族の方々にお悔やみを申し上げますと共に、殉職されたパイロットお二方のご冥福をお祈り申し上げます。


参考文献・サイト
「世界の傑作機F-80/T-33シューティングスター」(株式会社 文林堂)


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